『読老子』第八十章

今回は『読老子』の第八十章、つまり『老子』の第八十章の翻訳と解説です。今回もしっかりと頑張っていきます。


●原文:

小國寡民、使十百人之器而毋用、使民重死而遠徙。有車周、無所乘之。有甲兵、無所陳之。使民復結繩而用之。甘其食、美其服、樂其俗、安其居。鄰國相望、雞犬之聲相聞、民至老死、不相往來。


●書き下し文:

小國(せうこく) 寡民(くわみん)、十百人(じふひやくにん)の器(うつは)をして用(もち)ゐること毋(な)からしめ、民(たみ)をして死(し)を重(おも)んじて徙(うつ)ることを遠(とほ)ざからしむ。車周(しやしう) 有(あ)るも、之(これ)に乘(の)る所(ところ) 無(な)し。甲兵(かうへい) 有(あ)るも、之(これ)を陳(つら)ぬる所(ところ) 無(な)し。民(たみ)をして復(また) 繩(なは)を結(むす)びて之(これ)を用(もち)ゐらせしむ。其(そ)の食(しよく)を甘(うま)しとし、其(そ)の服(ふく)を美(び)とし、其(そ)の俗(ぞく)を樂(たの)しみ、其(そ)の居(きよ)に安(やす)んず。鄰國(りんごく) 相(あひ) 望(のぞ)み、雞犬(けいけん)の聲(こゑ) 相(あひ) 聞(き)こゆるも、民(たみ) 老死(らうし)に至(いた)るまで、相(あひ) 往來(わうらい)せず。

「國」の新字体は「国」、「乘」の新字体は「乗」、「繩」の新字体は「縄」、「樂」の新字体は「楽」、「鄰」の新字体は「隣」、「雞」の新字体は「鶏」、「來」の新字体は「来」
「小(せう)」の新仮名遣いは「小(しよう)」
「寡(くわ)」の新仮名遣いは「寡(か)」
「十(じふ)」の新仮名遣いは「十(じゆう)」
「器(うつは)」の新仮名遣いは「器(うつわ)」
「用(もち)ゐる」の新仮名遣いは「用(もち)いる」
「遠(とほ)ざからしむ」の新仮名遣いは「遠(とお)ざからしむ」
「周(しう)」の新仮名遣いは「周(しゆう)」
「甲(かう)」の新仮名遣いは「甲(こう)」
「繩(なは)」の新仮名遣いは「繩(なわ)」
「用(もち)ゐらせしむ」の新仮名遣いは「用(もち)いらせしむ」
「相(あひ)」の新仮名遣いは「相(あい)」
「老(らう)」の新仮名遣いは「老(ろう)」
「往(わう)」の新仮名遣いは「往(おう)」


では、本文に入ります。

「小國(せうこく) 寡民(くわみん)、」

これは、「国(國)(くに)を小(ちい(ちひ))さくし民(たみ)を寡(すく)なくす」、とも読むことが出来ます。小国で民衆の人数が少ないことを理想としています。そのことは、南宋(なんそう)の林希逸(りんきいつ)の註釈には、次のように述べています。

■原文:

小國寡民、猶孟子言得百里之地、皆可以朝諸侯、一天下之意。

■書き下し文:

小國(せうこく) 寡民(くわみん)、猶(なほ) 孟子(まうし)の百里(ひやくり)の地(ち)を得(え)て、皆(みな) 以(もつ)て諸侯(しよこう)を朝(てう)せしめ、天下(てんか)を一(いつ)にすべきの意(い)を言(い)ふがごとし。

「猶(なほ)」の新仮名遣いは「猶(なお)」
「孟(まう)」の新仮名遣いは「孟(もう)」
「朝(てう)」の新仮名遣いは「朝(ちよう)」
「言(い)ふ」の新仮名遣いは「言(い)う」

これは、『孟子(もうし)』の公孫丑章句(こうそんちゅうしょうく)の上の一節を指しています。次の一節です。

○原文:

曰、「伯夷伊尹何如。」曰、「不同道。非其君不事、非其民不使。治則進、亂則止。伯夷也。何事非君、何使非民。治亦進、亂亦進。伊尹也。可以仕則仕、可以止則止、可以久則久、可以速則速。孔子也。皆古聖人也。吾未能有行焉。乃所願則學孔子也。」「伯夷伊尹於孔子如是班乎。」曰、「否。自有生民以來、未有孔子也。」曰、「然則有同與。」曰、「有得百里之地、而君之皆能以朝諸侯、有天下行一不義、殺一不辜而得天下、皆不爲也。是則同。」曰、「敢問其所以異。」曰、「宰我子貢有若、智足以知聖人、汚不至、阿其所好。宰我曰、『以予觀於夫子、賢於堯舜遠矣。』子貢曰、『見其禮、知其政。聞其樂而知其德。由百世之後、等百世之王、莫之能違也。自生民以來、未有夫子也。』有若曰、『豈惟民哉。麒麟之於走獸、鳳凰之於飛鳥、泰山之於丘垤、河海之於行潦、類也。聖人之於民、亦類也。出於其類、拔乎其萃、自生民以來、未有盛於孔子也。』」

○書き下し文:

曰(いは)く、

「伯夷(はくい) 伊尹(いゐん) 何如(いかん)。」

と。曰(いは)く、

「道(みち)を同(おな)じくせず。其(そ)の君(くん)に非(あら)ざれば仕(つか)へず、其(そ)の民(たみ)に非(あら)ざれば使(つか)はず。治(をさ)まれば則(すなは)ち進(すす)み、亂(みだ)るれば則(すなは)ち退(しりぞ)く。伯夷(はくい)なり。何(なん)ぞ仕(つか)ふるに君(くん)に非(あら)ざらん。何(なん)ぞ使(つか)ふに民(たみ)に非(あら)ざらん。治(をさ)まるるも亦(また) 進(すす)み、亂(みだ)るるも亦(また) 進(すす)む。伊尹(いいん)なり。以(もつ)て仕(つか)ふるべきなれば則(すなは)ち進(すす)み、以(もつ)て止(とど)まるべきなれば則(すなは)ち止(とど)まり、以(もつ)て久(ひさ)しくすべきなれば則(すなは)ち久(ひさ)しくし、以(もつ)て速(すみ)やかにすべきなれば則(すなは)ち速(すみ)やかにす。孔子(こうし)なり。皆(みな) 古(いにしへ)の聖人(せいじん)なり。吾(われ) 未(いま)だ行(おこな)ふ有(あ)る能(あた)はず。乃(すなは)ち願(ねが)ふ所(ところ)は則(すなは)ち孔子(こうし)を學(まな)ぶなり。」

と。

「伯夷(はくい) 伊尹(いいん)の孔子(こうし)に於(お)けるは是(かく)の如(ごと)く班(はん)なるか。」

と。曰(いは)く、

「否(いな)。生民(せいみん) 有(あ)りてより以來(このかた)、未(いま)だ孔子(こうし) 有(あ)らざるなり。」

と。曰(いは)く、

「然(しか)らば則(すなは)ち同(おな)じき有(あ)るか。」

と。曰(いは)く、

「百里(ひやくり)の地(ち)を得(え)て、君(くん)の皆(みな) 能(よ)く以(もつ)て諸侯(しよこう)を朝(てう)せしむる有(あ)りて、天下(てんか)を有(たも)ちて一不義(いちふぎ)を行(おこな)ひ、一不辜(いちふこ)を殺(ころ)して天下(てんか)を得(う)るは、皆(みな) 爲(な)さざるなり。是(これ) 則(すなは)ち同(おな)じ。」

と。曰(いは)く、

「敢(あ)へて其(そ)の異(こと)なる所以(ゆゑん)を問(と)ふ。」

と。曰(いは)く、

「宰我(さいが) 子貢(しこう) 有若(いうじやく)、智(ち) 以(もつ)て聖人(せいじん)を知(し)るに足(た)るも、汚(ひく)くして至(いた)らず、其(そ)の好(この)む所(ところ)に阿(おもね)る。宰我(さいが) 曰(いは)く、

『予(われ)を以(もつ)て夫子(ふうし)を觀(み)るに、堯舜(げうしゆん)より賢(けん)なること遠(とほ)し。』

と。子貢(しこう) 曰(いは)く、

『其(そ)の禮(れい)を見(み)て、其(そ)の政(まつりごと)を知(し)る。其(そ)の樂(がく)を聞(き)きて其(そ)の德(とく)を知(し)る。百世(ひやくせい)の後(のち)に由(よ)りて、百世(ひやくせい)の王(わう)に等(ひと)しく、之(これ)に能(よ)く違(たが)ふる莫(な)きなり。生民(せいみん)より以來(このかた)、未(いま)だ夫子(ふうし) 有(あ)らざるなり。』

と。有若(いうじやく) 曰(いは)く、

『豈(あに) 惟(ただ) 民(たみ)のみなるや。麒麟(きりん)の走獸(そうじう)に於ける、鳳凰(ほうわう)の飛鳥(ひてう)に於(お)ける、泰山(たいざん)の丘垤(きうてつ)に於(お)ける、河海(かかい)の行潦(かうらう)に於(お)けるは、類(るい)なり。聖人(せいじん)の民(たみ)に於(お)けるも、亦(また) 類(るい)なり。其(そ)の類(るい)を出(い)でて、其(そ)の萃(あつ)まるを拔(ぬ)く。生民(せいみん)より以來(このかた)、未(いま)だ孔子(こうし)より盛(さか)んなること有(あ)らず。』

と。」

「亂」の新字体は「乱」、「學」の新字体は「学」、「爲」の新字体は「為」、「觀」の新字体は「観」、「堯」の新字体は「尭」、「禮」の新字体は「礼」、「德」の新字体は「徳」、「獸」の新字体は「獣」、「拔」の新字体は「抜」
「曰(いは)く」の新仮名遣いは「曰(いわ)く」
「尹(ゐん)」の新仮名遣いは「尹(いん)」
「仕(つか)へず」の新仮名遣いは「仕(つか)えず」
「使(つか)はず」の新仮名遣いは「使(つか)わず」
「治(をさ)まれば」の新仮名遣いは「治(おさ)まれば」
「則(すなは)ち」の新仮名遣いは「則(すなわ)ち」
「仕(つか)ふる」の新仮名遣いは「仕(つか)うる」
「使(つか)ふ」の新仮名遣いは「使(つか)う」
「治(をさ)まる」の新仮名遣いは「治(おさ)まる」
「古(いにしへ)」の新仮名遣いは「古(いにしえ)」
「行(おこな)ふ」の新仮名遣いは「行(おこな)う」
「願(ねが)ふ」の新仮名遣いは「願(ねが)う」
「朝(てう)」の新仮名遣いは「朝(ちよう)」
「行(おこな)ひ」の新仮名遣いは「行(おこな)い」
「所以(ゆゑん)」の新仮名遣いは「所以(ゆえん)」
「堯(げう)」の新仮名遣いは「堯(ぎよう)」
「遠(とほ)し」の新仮名遣いは「遠(とお)し」
「王(わう)」の新仮名遣いは「王(おう)」
「獸(じう)」の新仮名遣いは「獸(じゆう)」
「凰(わう)」の新仮名遣いは「凰(おう)」
「鳥(てう)」の新仮名遣いは「鳥(ちよう)」
「丘(きう)」の新仮名遣いは「丘(きゆう)」
「行(かう)」の新仮名遣いは「行(こう)」
「潦(らう)」の新仮名遣いは「潦(ろう)」

「伯夷(はくい)」は第七十九章に既出です。孤竹(こちく)という国の君主の息子で、君主である父が亡くなった時に、遺言では末弟の叔斉(しゅくせい)を後継にしていたところ、叔斉(しゅくせい)は長男である伯夷(はくい)に譲ろうとして、伯夷(はくい)は父の遺志に背くことを恐れて国を去っていき、叔斉(しゅくせい)は長幼の序を乱すことを恐れ、兄を思いやる気持ちから共に国を去りました。伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)は二人揃って周(しゅう)の文王(ぶんのう)の徳を慕って周(しゅう)に向かいました。文王(ぶんのう)が亡くなって文王(ぶんのう)の息子の武王(ぶおう)が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を討伐しようとすると、二人は馬を叩いて諌めました。武王(ぶおう)が紂王(ちゅうおう)を討伐すると、二人は周(しゅう)の穀物を食べたくないと言って、首陽山(しゅようざん)に隠れて蕨を取って食べて暮らし、遂には餓死しました。

「伊尹(いいん(いゐん))」は、名は摯(し)。殷(いん)の天乙(てんいつ:湯王(とうおう)とも呼ばれます。)を助けて、夏(か)の桀王(けつおう)を討伐して、殷(いん)王朝を開いた功臣で、五代の王にわたって丞相(じょうしょう:宰相(さいしょう))を務めました。彼が成人になった頃は、有莘氏(ゆうしんし)という貴族の奴隷であり、その有莘氏(ゆうしんし)の娘が天乙(てんいつ)に嫁いだ時に、天乙(てんいつ)に料理人として仕え、料理を出すときに天下の情勢について述べ、それがもとで奴隷の身から解放されて丞相(じょうしょう)となりました。一説には、伊尹(いいん)が元々は夏(か)の国の臣下で、後に殷(いん)の天乙(てんいつ)に仕えるようになったともあります。

(『孫子(そんし)』「用間(ようかん)篇(間篇(かんへん)第十三)」に、「昔殷之興也、伊摯在夏。(昔(むかし) 殷(いん)の興(おこ)るや、伊摯(いし) 夏(か)に在(あ)り。)」、つまり、「昔、殷(いん)の国が興る頃、伊摯(いし:伊尹(いいん)のこと)が夏(か)の国に(夏(か)の国の臣下として)いました。」とあり、一節の南宋(なんそう)の張預(ちょうよ)の註釈に、「伊尹、夏臣也。(伊尹(いいん(いゐん))、夏(か)の臣(しん)なり。)」、つまり、「伊尹(いいん)は、夏(か)の国の臣下でした。」とあります。)

「宰我(さいが)」は孔子(こうし)の門人の一人で、弁論に優れていました。孔子(こうし)に三年の喪は一年で良いのではと言ったところ、父母から受けた三年の愛(生まれてから三年の間に受けた愛)はあるのかと孔子に批判されました。ほかにも「寝坊」で叱られたりしていました、それは他の門人たちに戒めさせるために敢えて宰我(さいが)に厳しく言ったものです。

「子貢(しこう)」は孔子(こうし)の門人の一人で、こちらも弁論に優れていました。相場のやり取りも得意で、ひとりでに財産を増やしていました。物事を推し量ると常に的中すると孔子(こうし)に言われました。斉(せい)の田常(でんじょう)が四氏(高氏(こうし)・国氏(こくし)・鮑氏(ほうし)・晏氏(あんし))の高官達の兵と共に魯(ろ)を攻めた時は、子貢(しこう)が各国の君主に説いて回って、魯(ろ)の国を保ったという出来事もありました。

「有若(ゆうじやく(いうじやく))(小書き文字を使うと「ゆうじゃく」)」は孔子(こうし)の門人の一人で、姿が孔子(こうし)に似ていたことから、孔子(こうし)の死後、孔子(こうし)の門人の子夏(しか)・子張(しちょう)・子游(しゆう)らが彼に孔子が生きていた頃と同様に(孔子(こうし)に仕えていたように)仕えようとしたところ、曾子(そうし)が反対した、という話があります。『論語(ろんご)』「学而(がくじ)第一」や「顔淵(がんえん)第十二」には、彼の言葉が収録されています。

(『史記(しき)』の『仲尼弟子列伝(ちゅうじていしれつでん)』より。)

(『孟子(もうし)』の「滕文公章句(とうのぶんこうしょうく)上」には、有若(ゆうじゃく)が聖人(せいじん)に似ているとありました。)。

(『礼記(らいき)』の「檀弓(だんぐう)上」の篇の一節に、孔子(こうし)の門人の子游(しゆう)の発言として、「有子之言、似夫子也。(有子(ゆうし(いうし))の言(げん)、夫子(ふうし)に似(に)るなり。)」、つまり、「有子(ゆうし:有若(ゆうじゃく)のこと)の言葉は、先生(孔子(こうし))に似ています。」とあることから、『孟子(もうし)』の一節で言う「聖人(せいじん)」とは、孔子(こうし)のことであると分かります。)

○現代語訳:

(孟子(もうし)の門人の公孫丑(こうそんちゅう)は、)次のように言いました。

「賢人の伯夷(はくい)と殷(いん)の丞相(じょうしょう:宰相(さいしょう))の伊尹(いいん)については、どう思われますか。」

と。すると(孟子(もうし)は)次のように言いました。

「二人は道を同じくしていません。(一人は)きちんとした君主でなければ仕えることは無く、きちんとした民衆でなければ使役することは無いのです。国が治まっていれば自分を進め、国が乱れていれば自分を退かせる、というのが伯夷(はくい)なのです。(一人は)どうして仕える相手が君主で無いことがあるでしょうか、どうして使役する相手が民衆で無いことがあるでしょうか。(という風に考えて、どんな君主にも仕え、どんな民衆も使役し、)国が治まっていても、国が乱れている時も、同様に自分を進めることが出来るのが伊尹(いいん)なのです。また、君主が仕えるべき人であれば自分を進め、君主が仕えるのを止めるべき人であれば自分を止め、国に留まるのを長くすべきであれば国に留まるのを長くし、国を去るのを速やかにすべきであれば速やかに去る、というのが孔子(こうし)なのです。

(孔子(こうし)は時の宜しきに従って自在に動くことが出来るのです。)

この三人は皆、昔の知恵と徳に優れた聖人です。私はまだ(三人の行っていたことを)行うことが出来ていません。そこで願うのは孔子(こうし)について学ぶということです。」

と。(公孫丑(こうそんちゅう)は次のように言いました。)

「伯夷(はくい)と伊尹(いいん)を孔子(こうし)と比べれば、このように等しいものでしょうか。」

と。すると(孟子(もうし)は)次のように言いました。

「いや、違います。人類がこの世に出て以来、未だ孔子(こうし)のような人はいなかったのです。」

と。すると(公孫丑(こうそんちゅう)は)次のように言いました。

「それでは、同じ所はあるのですか。」

と。すると(孟子(もうし)は)次のように言いました。

「君主として百里の土地を得て、良く諸侯(しょこう:各地を治める君主)達を皆、その君主の国の朝廷に参内させるような理想の政治をすることも、(あるいは)天下を保つのに一つの道ならないことをしたり、一人の罪の無い人を殺して天下を得たり、というような悪事を行うことも、皆していないのです。これはつまり、三人と同じであるということです。」

と。すると(公孫丑(こうそんちゅう)は)次のように言いました。

「敢えてその三人の異なる理由をお尋ねします。」

と。すると(孟子(もうし)は)次のように言いました。

「宰我(さいが)・子貢(しこう)・有若(ゆうじゃく)という三人の孔子(こうし)の門人は、三人とも聖人(せいじん)を知るのに十分な知恵を持っていますが、行いにおいて低い所があって聖人(せいじん)に至らず、各人の好む所に気に入られようとしているのです。

(知恵には優れていますが、行いに悖る所があるのです。)

(孔子(こうし)について、)宰我(さいが)は次のように言いました。

『私の目で先生(孔子(こうし))を見ますと、太古の聖人の尭(ぎょう)や舜(しゅん)よりはるかに賢明なのです。』

と。子貢(しこう)は次のように言いました。

『その君主の礼(れい:世の中の筋道を元にした儀礼や制度)を見れば、その君主が行う政治を知ることが出来、その君主の治める民衆達の音楽(流行り歌)を聞けば、その君主の徳の程度が分かるのです。百代の王の世の後に従って物事を学んでいくと、百代の王たちに等しくなり、この王たちと道を違えることは無くなるのです。人類がこの世に出て以来、まだ先生(孔子(こうし))のような人はいないのです。

(孔子(こうし)によって百代の王たちの道を知ることが出来たのです。そのような偉業を成したのは、孔子(こうし)ただ一人なのです。)』

と。有若(ゆうじゃく)は次のように言いました。

『どうして単に民衆だけでしょうか。

(人という同じ仲間の中でこれほどの違いが出るのは。)

麒麟(きりん)と走る獣達とを比べると、鳳凰(ほうおう)と飛ぶ鳥達とを比べると、泰山(たいざん)という山と小さな丘達とを比べると、河や海と道路の水たまりとを比べると、これらは皆、仲間と言えるものです。聖人(せいじん)と民衆とを比べるのも、また同様に仲間なのです。その仲間の内で優れているので、その仲間を飛び抜けてその集まりから抜け出しているのです。人類がこの世に出て以来、未だ孔子(こうし)のような盛んにその仲間から抜け出ている人はいないのです』

と。」


つまり、孟子(もうし)が孔子(こうし)は聖人(せいじん)の中でも優れた人であるということを、孔子(こうし)の門人たちの言葉を引いて述べています。

南宋(なんそう)の林希逸(りんきいつ)の註釈部分は、君主が百里四方という狭い土地であっても、その君主に対して諸侯(しょこう)達を朝廷に参内させることが出来る程の理想の政治を示しているのです。

では、その註釈部分の現代語訳は、次のようになります。

■現代語訳:

小国寡民(しょうこくかみん)とは、まるで孟子(もうし)が「公孫丑章句(こうそんちゅうしょうく)上」で述べたように、君主が百里の狭い土地を得て、それでいてその諸侯(しょこう)達を皆、その君主の朝廷に参内させて天下を一にすることが出来るという意味を言うような、狭い土地の中での徳の高い政治を指しているのです。


つまり、ここで述べているのは、一国の治める範囲は小さくて、民衆も少なくても、その国を中心に天下が統一されて、その国の君主の朝廷に諸侯(しょこう)達が参内してくる程の徳を持った国のことなのです。


次です。

「十百人(じふひやくにん)の器(うつは)をして用(もち)ゐること毋(な)からしめ、」


この部分は、魏(ぎ)の王弼(おうひつ)の本文では「使有什伯之器而不用」となっていますが、中国の湖南省長沙市の東の郊外にある馬王堆(ばおうたい)という前漢初期の墳墓の第三号漢墓より出土された帛書(はくしょ:布に書いた書)(以下、「馬王堆帛書(ばおうたいはくしょ)」)の甲本(甲本と乙本があります)には、「使十百人之器而毋用」とあり、乙本には「使有十百人之器而毋用」とありましたので、今回は甲本を元に改めています。

「十百人(じゆうひやくにん(じふひやくにん))(小書き文字を使うと「じゅうひゃくにん」)の器(うつわ(うつは))」とは、十人や百人を統率する器量のあるリーダー、あるいはそのように十人・百人を単位として治める制度のことです。

この国では自分で自分を治めるために、そのようなリーダーや統治制度を必要としないのです。


次です。

「民(たみ)をして死(し)を重(おも)んじて徙(うつ)ることを遠(とほ)ざからしむ。」

この部分の末尾の「遠徙」は魏(ぎ)の王弼(おうひつ)の本文では「不遠徙」とありますが、馬王堆帛書(ばおうたいはくしょ)では「遠徙」とありましたので、それを元に改めています。

両者は正反対のようですが、「使民重死而不遠徙」は「民(たみ)をして死(し)を重(おも)んぜしめて遠(とお(とほ))く徙(うつ)らず」、「使民重死而遠徙」は「民(たみ)をして死(し)を重(おも)んじて徙(うつ)ることを遠(とお(とほ))ざからしむ」と、「使」の使役の範囲を「遠徙」にまで及ぼして読んでいくと同じことを言っていることになります。ここでは「不」は余分であるということが分かります。

この部分が「遠徙」でも意味が変わらないことに着目して、明(みん)の薛蕙(せつけい)の註釈を見てみます。次の一節です。

■原文:

樂其生、故重死。安其居、故不遠徙。

■書き下し文:

其(そ)の生(せい)を樂(たの)しむ、故(ゆゑ)に死(し)を重(おも)んず。其(そ)の居(きよ)に安(やす)んず、故(ゆゑ)に遠(とほ)く徙(うつ)らず。

「故(ゆゑ)に」の新仮名遣いは「故(ゆえ)に」

■現代語訳:

自分の人生を楽しんでいるからこそ、死を重大なものと見るのです。自分の住んでいる所に安らいでいるからこそ、遠くへ移らない(移ることから遠ざかる)のです。


つまり、死を重大なものと考えさせ、遠くに移ることから遠ざからせるというのは、自分の人生を楽しみ、自分の住んでいる所に安らいでいることが基本になっているということが分かります。


次です。

「車周(しやしう) 有(あ)るも、之(これ)に乘(の)る所(ところ) 無(な)し。甲兵(かうへい) 有(あ)るも、之(これ)に陳(つら)ねる所(ところ) 無(な)し。」

「陳(ちん)」は「陳列(ちんれつ)」、つまり「並べる」という意味になります。

「車周」は魏(ぎ)の王弼(おうひつ)の本文では「舟輿」となっていますが、馬王堆帛書(ばおうたいはくしょ)の甲本では「車周」、乙本では「周車」となっています。今回は甲本を元に改めています。

「周(しゅう)」は「舟(しゅう)」の仮借字(かしゃじ:ある語を示す文字が無い場合に、意味の異なる同音の漢字を当てたもの)であり、そのことから考えますと、「車周」も「周車」も車と舟を指し、「舟輿」も舟と車を指しますので、意味は変わらないことになります。

その意味が変わらないことに着目して、南宋(なんそう)の林希逸(りんきいつ)の註釈を見てみます。次の一節です。

■原文:

雖有舟輿、無所乘之、不致遠以求利也。雖有甲兵而不陳列、不恃力以求勝也。

■書き下し文:

舟輿(しうよ) 有(あ)ると雖(いへど)も、之(これ)に乘(の)る所(ところ) 無(な)し、遠(とほ)きを致(いた)して以(もつ)て利(り)を求(もと)めざるなり。甲兵(かうへい) 有(あ)ると雖(いへど)も陳列(ちんれつ)せず、力(ちから)を恃(たの)みて以(もつ)て勝(しよう)を求(もと)めざるなり。

「舟(しう)」の新仮名遣いは「舟(しゆう)」
「雖(いへど)も」の新仮名遣いは「雖(いえど)も」
「遠(とほ)き」の新仮名遣いは「遠(とお)き」

■現代語訳:

舟と車があってもこれに乗る場所は無いのです。それは遠くまで行き着いて、それで利益を求めることは無いからなのです。甲冑や武器があってもそれを並べる場所が無い(軍隊を編成する場所が無い)のです。それは自分の力を頼りにして、それで勝利を求めることが無いからなのです。


つまり、遠方で利益を求めることが無いから、車と舟は不要であり、戦争に勝つ必要が無いから甲冑や武器も不要であるということです。

次です。

「民(たみ)をして復(また) 繩(なは)を結(むす)びて之(これ)を用(もち)ゐらせしむ。」

これは、第七十九章の『周易(しゅうえき:又は『易経(えききょう)』)』の「繋辞伝(けいじでん)下」の第二章の孔子(こうし)の門人の子夏(しか)の註釈(『子夏易伝(しかえきでん)』)に出て来た部分です。

それによると、大昔は官職を設けず、自分で自分を治めていたために、自分で自分が何をするかを決めていたので、縄を結んで自分がすることを印とするだけで治まったとあります。

そして、後に自分で自分を治めることが無くなって、民衆から聖人(せいじん)の道(みち:ここでは、踏み行うべき道理)が離れていくに従って、聖人(せいじん)は多くの官吏の官職を治めるために書が、そして人と人との約束事を記すために書契(しょけい:物のやり取りの権利関係を記した割り符の文書)を発明したということです。

ですから、自分で自分を治めるようにして、自分がすることを縄で印をするだけで十分な状態にするということです。


次です。

「其(そ)の食(しよく)を甘(うま)しとし、其(そ)の服(ふく)を美(び)とし、其(そ)の俗(ぞく)を樂(たの)しみ、其(そ)の居(きよ)に安(やす)んず。」

「甘(かん)」はここでは「旨(うま)い」の意味です。『新字源(しんじげん)』には「あまい」より前に「うまい」が出て来ます。

この部分の後半部分、「樂其俗、安其居」は魏(ぎ)の王弼(おうひつ)の本文では「安其居、樂其俗」と逆になっていますが、馬王堆帛書(ばおうたいはくしょ)を元に改めています。

この部分は、明(みん)の薛蕙(せつけい)の註釈には、次のように述べています。

■原文:

甘其食、以其食爲甘也。下三句意放此。

■書き下し文:

其(そ)の食(しよく)を甘(うま)しとす。其(そ)の食(しよく)を以(もつ)て甘(うま)しと爲(な)すなり。下三句(したさんく)の意(い) 此(これ)に放(なら)ふ。

「放(ほう(はう))」は「倣(ほう(はう))」、つまり「倣(なら)う」の意味になります。

■現代語訳:

「其(そ)の食(しよく)(小書き文字を使うと「しょく」)を甘(あま)しとす。」とは、自分の食べ物を旨いとするのです。

(自分の食べている物を旨いとして、他を求めないのです。)

下の三句の意味も、これに倣うものです。


つまり、この部分は「自分の食べ物を旨いとし、自分の服を美しいとし、自分の習わしを楽しみ、自分の住んでいる所に安らぐ」となります。

更に、明(みん)の薛蕙(せつけい)の註釈には、次のように述べています。

■原文:

言民自足而不外慕也。司馬溫公曰、雖疏惡隘陋、自以爲甘美安樂。

■書き下し文:

民(たみ) 自(みづか)ら足(た)りて外(ほか)を慕(した)はざるを言(い)ふなり。司馬溫公(しばをんこう) 曰(いは)く、

「疏惡隘陋(そあくあいろう)と雖(いへど)も、自(みづか)ら以(もつ)て甘美安樂(かんびあんらく)と爲(な)す。」

「溫」の新字体は「温」、「惡」の新字体は「悪」
「慕(した)はざる」の新仮名遣いは「慕(した)わざる」
「溫(をん)」の新仮名遣いは「溫(おん)」
「自(みづか)ら」の新仮名遣いは「自(みづか)ら」

「司馬温公(司馬溫公)(しばおんこう(しばをんこう))」とは北宋(ほくそう)の学者で政治家の司馬光(しばこう)のことです。字(あざな:成人の時に付けられる名)は君実(君實)(くんじつ)で、号は迂叟(うそう)です。歴史書の『資治通鑑(しじつがん)』の編纂を行ったことで知られています。彼は王安石(おうあんせき)の新法に反対し、とても保守的な人物です。南宋(なんそう)の朱熹(しゅき)が絶賛したことから、後世の儒学者達からはとても人気のある人物です。死後に太師(たいし:天子(てんし:皇帝)の師)・温国公(おんこくこう)の爵位を授けられました。「司馬温公(しばおんこう)」はこのことにちなんだ呼び名です。

■現代語訳:

民衆が自分の分で足りて、他を慕い求めることが無いことを言うのです。北宋(ほくそう)の司馬光(しばこう)は次のように言いました。

「食べ物がお粗末で(疏(そ))、自分の服が悪くて(悪(あく))、自分の住む所が狭くて(隘(あい))、自分のしきたりがお粗末なものであったとしても(陋(ろう))、自分でそれらを旨く(甘(かん))、美しく(美(び))、安らかで(安(あん))、楽しい(楽(らく))とするのです。」

と。


つまり、司馬光(しばこう)の言葉も併せて考えますと、自分の持ち物で満足して、他を求めることが無い、ということを述べている部分です。


次です。

「鄰國(りんごく) 相(あひ) 望(のぞ)み、雞犬(けいけん)の聲(こゑ) 相(あひ) 聞(き)こゆるも、民(たみ) 老死(らうし)に至(いた)るまで、相(あひ) 往來(わうらい)せず。」

この部分は、元(げん)の呉澄(ごちょう)の註釈には、次のように述べています。

■原文:

此言民皆懷土、雖相鄰之國、目可以相望。雞犬之聲、耳可以相聞。如此至近至老死不相往来、不但不遠徙而已。

■書き下し文:

此(これ) 民(たみ) 皆(みな) 土(つち)を懷(なつ)かしみ、相鄰(さうりん)の國(くに)と雖(いへど)も、目(め) 以(もつ)て相(あひ) 望(のぞ)むべし。雞犬(けいけん)の聲(こゑ)、耳(みみ) 以(もつ)て相(あひ) 聞(き)こゆべし。此(か)くの如(ごと)く至近(しきん)にして老死(らうし)に至(いた)るまで相(あひ) 往來(わうらい)せざるは、但(ただ) 遠(とほ)く徙(うつ)らざるのみならず。

「相(さう)」の新仮名遣いは「相(そう)」

■現代語訳:

これは、民衆が皆、自分の土地を懐かしみ、お隣同士の国であっても、目でお互いを望み見ることが出来ます。鶏や犬の鳴き声が、耳でお互いに聞こえることが可能な状況なのです。このようにとても近くにいても老いて死ぬに至るまでお互いに往来しないというのは、ただ遠くに移らない(移ることから遠ざかる)だけではないのです。


つまり、移らないだけでなく、お互いに往来もしない程、他を求める気持ちが無いということです。

ここまでが本文の箇所です。さて、老子はこのようなユートピアを考えてどうしようというのでしょうか。それは南宋(なんそう)の林希逸(りんきいつ)の註釈を元に考えてみます。

■原文:

此老子因戦國紛爭、而思上古淳朴之俗、欲復見之。觀其所言、亦有自用之意。

■書き下し文:

此(これ) 老子(らうし) 戰國(せんごく)の紛爭(ふんさう)に因(よ)りて、上古(じやうこ) 淳朴(じゆんぼく)の俗(ぞく)を思(おも)ひ、復(また) 之(これ)を見(み)んと欲(ほつ)す。其(そ)の言(い)ふ所(ところ)を觀(み)れば、亦(また) 自(みづか)ら用(もち)ゐるの意(い) 有(あ)り。

「戰」の新字体は「戦」、「爭」の新字体は「争」、「觀」の新字体は「観」
「爭(さう)」の新仮名遣いは「爭(そう)」
「上(じやう)」の新仮名遣いは「上(じよう)」
「思(おも)ひ」の新仮名遣いは「思(おも)い」

■現代語訳:

これは、老子(ろうし)が古代中国の戦国時代の紛争の時代に基づいて、大昔の質素で人情に厚い土地の習わしを思い、またこれを見たいと思ったのです。老子(ろうし)のいう所をじっくりと見てみると、同様に万事を(各人が)自分一人で処理するという意味があるのです。


「万事を(各人が)自分一人で処理する」のは、老子(ろうし)が「樸(ぼく)」を失わない社会を理想としているからです。「樸(ぼく)」とは、材木になる生木のような、人が生まれ持つ優れた性質のことで、個々の道の修養によって、更に磨きをかけて保っていくもののことで、これは、大昔の人々の中に自然にあった、聖人(せいじん)の道(みち:ここでは、踏み行うべき道理)が、今の人々と離れてしまっている状況の中では、そうしなければ「樸(ぼく)」というものが失われてしまうのですが、

昔の自分で自分を治める状況に戻すことで、人と聖人(せいじん)の道(みち)がより近くなり、人が生まれ持つ優れた性質を失わずにいられる社会を老子(ろうし)は再び見たいと思ったのです。


以上をまとめますと、次のような現代語訳になります。


●現代語訳:

小国で民衆の人数が少ないことが理想なのです。

(その上で、『孟子(もうし)』の「公孫丑章句(こうそんちゅうしょうく)上」で述べたように、君主が百里の狭い土地を得て、それでいて各地を治める君主である諸侯(しょこう)達を皆、その君主の朝廷に参内させて天下を一にすることが出来る、というような、狭い土地の中での徳の高い政治を行うのです。)

(つまり、一国の治める範囲は小さくて、民衆も少なくても、その国を中心に天下が統一されて、その国の君主の朝廷に諸侯(しょこう)達が参内してくる程の徳を持った国を理想としているのです。)


十人や百人を統率する器量のあるリーダーがいても、或いはそのように十人・百人を単位として治める制度があったとしても、それらを使わないようにさせて、

(この国では自分で自分を治めるために、そのようなリーダーや統治制度を必要としないのです。)


死を重大なものと考えさせて、移ることから遠ざからせるのです。

(自分の人生を楽しんでいるからこそ、死を重大なものと見るのです。自分の住んでいる所に安らいでいるからこそ、移ることから遠ざかるのです。)

(つまり、死を重大なものと考えさせ、移ることから遠ざからせるというのは、自分の人生を楽しみ、自分の住んでいる所に安らいでいることが基本になっているのです。)


車と舟があってもこれに乗る場所は無いのです。甲冑や武器があってもそれを並べる場所が無い(軍隊を編成する場所が無い)のです。

(遠方で利益を求めることが無いから、舟と車は不要であり、戦争に勝つ必要が無いから甲冑や武器も不要であるということです。)


民衆に再び縄を結ぶということを利用させるのです。

(大昔は官職を設けず、自分で自分を治めていたために、自分で自分が何をするかを決めていたので、縄を結んで自分がすることを印とするだけで治まっていました。)

(そして、後に自分で自分を治めることが無くなって、民衆から聖人(せいじん)の道(みち:ここでは、踏み行うべき道理)が離れていくにしたがって、聖人(せいじん)は多くの官吏の官職を治めるために書を、そして人と人との約束事を記すために書契(しょけい:物のやり取りの権利関係を記した割り符の文書)を発明したということです。)

(ですから、自分で自分を治めるようにして、自分がすることを縄で印をするだけで十分な状態にするということです。)


その国の民衆は自分の食べ物を旨いとし、自分の服を美しいとし、自分の習わしを楽しみ、自分の住んでいる所に安らぐのです。

(民衆が自分の分で足りて、他を慕い求めることが無いのです。北宋(ほくそう)の司馬光(しばこう)は次のように言いました。)

(「食べ物がお粗末で(疏(そ))、自分の服が悪くて(悪(あく)))、自分の住む所が狭くて(隘(あい))、自分のしきたりがお粗末なものであったとしても(陋(ろう))、自分でそれらを旨く(甘(かん))、美しく(美(び))、安らかで(安(あん))、楽しい(楽(らく))とするのです。」

と。)

(つまり、自分の持ち物で満足して、他を求めることが無い、ということです。)


お隣同士の国が、目でお互いを望み見ることが出来る程に近く、鶏や犬の鳴き声が、耳でお互いに聞こえるほどに近くであったとしても、老いて死ぬまで、お互いに往来しないのです。

(これは移らないだけでなく、お互いに往来もしない程、他を求める気持ちが無いのです。)


(私(老子(ろうし))は古代中国の戦国時代の紛争の時代に基づいて、大昔の質素で人情に厚い土地の習わしのことを思い、またこれを見たいと思ったのです。その国では、万事を(各人が)自分一人で処理するのです。)

(「万事を(各人が)自分一人で処理する」のは、「樸(ぼく)」を失わない社会を理想としているからです。「樸(ぼく)」、つまり材木になる生木のような、人が生まれ持つ優れた性質、それを今の人と聖人(せいじん)の道(みち:ここでは、踏み行うべき道理)が離れた状況では、個々の道の修養によって、更に磨きをかけて保っていくことが必要なのですが、)

(昔の自分で自分を治める状況に戻すことで、人が生まれ持つ優れた性質をそのまま失わずにいられる社会、これを見たいと思ったのです。)


●まとめ:

今回は『読老子』の第八十章、つまり『老子』の第八十章の翻訳と解説です。

今回の章は老子(ろうし)がユートピアを語る章です。

小国で民衆の数が少ないことを理想とし、その上で『孟子(もうし)』の「公孫丑章句(こうそんちゅうしょうく)上」で述べたような、一国の治める範囲は小さくて、民衆も少なくても、その国を中心に天下が統一されて、その国の君主の朝廷に各地を治める君主である諸侯(しょこう)達が参内してくる程の徳を持った国を理想としていることを述べ、

その国では自分で自分を治めることを基本にしていて、十人や百人を統率する器量のあるリーダー、或いはそのように十人・百人を単位として治める制度があっても、それを使わないようにさせて、

自分の人生を楽しみ、自分の住んでいる所に安らぐことを基本にして、死を重大なものと考えさせ、移ることから遠ざからせることを述べ、

その国では、遠方で利益を求めることが無いから、舟と車は不要であり、戦争に勝つ必要が無いから、甲冑や武器も不要であることを述べ、

自分で自分が何をするかを決めていた大昔のように、縄を結んで自分がすることを印とするだけで治まるようにし、

その国の民衆は自分の食べ物を旨いとし、自分の服を美しいとし、自分の習わしを楽しみ、自分が住んでいる所に安らぐというように、自分の持ち物で満足して、他を求めることが無く、

お隣同士の国が、目でお互いを望み見ることが出来る程に近く、鶏や犬の鳴き声が、耳でお互いに聞こえるほどに近くであったとしても、老いて死ぬまで、お互いに往来しない程に、他を求める気持ちが無いことを述べ、

老子(ろうし)が古代中国の戦国時代の紛争の時代に基づいて、大昔の質素で人情に厚い土地の習わしのことを思い、またこれを見たいと思い、

万事を(各人が)自分一人で処理させて、「樸(ぼく)」を失わない社会を理想とし、

「樸(ぼく)」、つまり材木になる生木のような、人が生まれ持つ優れた性質、それを今の人と聖人(せいじん)の道(みち:ここでは、踏み行うべき道理)が離れた状況では、個々の道の修養によって、更に磨きをかけて保っていくことが必要になっているけれども、

昔の自分で自分を治める状況に戻すことで、人が生まれ持つ優れた性質をそのまま失わずにいられる社会を見たいと思ったことを述べた章です。


自分で自分を治める社会、このような社会に戻ることは無いわけですが、自分で自分の身を治めていくこと、私自身をそういう状況にきちんとしていけるように、療養しながらも引き続き頑張っていきます。次は最後の第八十一章、漢詩と共にしっかりと頑張っていきます。


(読老子・第八十章・了)


佐村 昌哉(筆名:白川 玄齋)

この記事へのコメント

  • 泥舟

    なるほど。各聖人と謳われておられる方々の
    素晴らしさが伺えますね。
    見習うには程高すぎるような思いです。
    2016年05月22日 23:22
  • 玄齋(佐村)

    > 泥舟さん

    おはようございます。温かいコメントをありがとうございます。

    はい。老子の述べたユートピアは、民衆と聖人の道が離れていない社会、
    それを昔ながらに自分で自分を治めさせることで実現させようとしたものです。
    このまま今に当てはめていくのは難しい、私もそう思います。

    各人が自分一人で万事を処理し、自分の持ち物で満足して他を求めない、
    他を求めないからこそ移ることから遠ざかったりしない、
    今の生活をしている状況から考えると、とても難しいものばかりですが、
    今の世の中に住んでいる自分はどのくらいで満足できるかを考えたり、
    住んでいる所に安らぐからこそ移ることから遠ざかる、という所に、
    災害からの生活の復旧をどのように行うかという課題も考えたりすることが出来ます。

    そのまま今の時代にこの章の考えを持ち込むことが出来なくても、
    考えられる大切なことは沢山ある、ということに気付かされます。

    こういう言葉に触れる中で、今の私自身や世の中を考えていく、
    そうして自分の身も修まってくるようにと、
    これからも療養しながら頑張っていきます。

    泥舟さんも良い一週間をお過ごし下さい。
    さらに回復していきますようにと願っています。
    2016年05月23日 06:35
  • 美舟

    確かに現代にはなかなか当てはまらないところもあるでしょうね。
    大昔のことではありますから。
    でも大昔のことに学ぶべき色々なことがありますでしょうね。
    過去はすべて学びになるような気がする私です。
    学んで前に進む・・・
    学ばなければいくら前に進んでもダメな気がしますよね。
    しっかり学びながら、一日一日をしっかり過ごしていけたらなと思います。
    いつも素晴らしいお記事に感謝致します。
    良い1週間をお過ごし下さいませね。
    2016年05月23日 10:18
  • 玄齋(佐村)

    > 美舟さん

    こんにちは。温かいコメントをありがとうございます。

    はい、先ほどの泥舟さんのコメントでのお返事の所でも後半部分に書いたように、
    直接今の世の中に適応することは出来ないにしても、
    その言葉を今の自分、今の世の中の問題点を考える材料にはなりますね。

    学んで前に進む、私の勉強というのは、昔の言葉を学んで、
    それを今の自分の身の回りの状況から考えていく、
    そうして少しずつ今の自分にとっての活きた道理として理解していく、
    そんな勉強です。これは古典全般に適用できることですね。

    昔を学んで今に活かしていく、療養しながらも、
    この勉強はしっかりと続けていきます。

    美舟さんも良い一週間をお過ごし下さい。
    今週は暑くなりそうです。
    2016年05月23日 12:13