填詞「虞美人」

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●原文:

虞美人  玄齋 佐村 昌哉  大阪市

覇王襟裏向誰語,四面無能禦。

漢軍齊唱楚歌時,朗詠虞兮身上獨憂詩。

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虞姫返答悲歌切,不忍長生訣。

項王意気欲殫焉,恩愛留心自刃赴黃泉。


●書き下し文:

 題:「虞美人(ぐびじん)」

覇王(はわう)の襟裏(きんり) 誰(たれ)に向(む)かつて語(かた)らん,
四面(しめん) 能(よ)く禦(ふせ)ぐこと無(な)し。

漢軍(かんぐん) 楚歌(そか)を齊唱(せいしやう)するの時(とき),
朗詠(らうえい)す虞兮(ぐけい)の身上(しんじやう) 獨(ひと)り憂(うれ)ふるの詩(し)。

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虞姫(ぐき)の返答(へんたふ) 悲歌(ひか) 切(せつ)なり,
忍(しの)びず長(なが)らくの生訣(せいけつ)を。

項王(こうわう)の意氣(いき) 焉(ここ)に殫(つ)きんとす,
恩愛(おんあい) 心(こころ)に留(とど)め自刃(じじん)して黃泉(くわうせん)に赴(おもむ)く。


●現代語訳:

 題:「宮廷歌謡の替え歌である填詞(てんし)の虞美人(ぐびじん)を詠みました」

 覇王(はおう:項羽(こうう))の胸の内を、誰に向かって語るのでしょうか、
 四方の敵を、うまく防ぐことは出来ませんでした。

 漢軍(かんぐん)が声を揃えて楚(そ)の国の歌を歌う時、
 声に出して詠むのは、虞兮(ぐけい:虞美人(ぐびじん))の身の上を、一人で心配する詩でした。

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虞姫(ぐき:虞美人(ぐびじん))の返答は、身に迫るような哀しい歌によるものでした。
 長らく生き別れになることは耐えられないと。

 項王(こうおう:項羽(こうう))の意思と勇気は、ここに尽きようとしていました。
 夫婦の愛情を心に留め、剣で自殺をして黄泉(よみ)の国に赴きました。

●語注:

※霸王(はおう(はわう)):「霸者〔はしゃ〕と王者〔おうじゃ〕。」(『新字源』P485)のことで、ここでは楚(そ)の項羽(こうう)のことを指して言います。

※霸者(はしや)(小書き文字を使うと「はしゃ」):「武力で天下を統一した者。」(『新字源』P485)

※王者(おうじや(わうじや))(小書き文字を使うと「おうじゃ」):「王道〔おうどう〕によって天下を治める君主。」(『新字源』P651)

※王道(おうどう(わうだう)):「道徳によって人民の幸福をはかって天下を治める政治のやり方。孟子〔もうし〕が唱えた。〔孟・梁恵王〕」(『新字源』P652)

実際に、『孟子(もうし)』の「梁恵王章句(りょうのけいおうしょうく)上」には、孟子(もうし)は次のように述べています。

■原文:

不違農時、穀不可勝食也。數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也。斧斤以時入山林、材木不可勝用也。穀與魚鼈不可勝食、材木不可勝用、是使民養生喪死無憾也。養生喪死無憾、王道之始也。

■書き下し文:

農時(のうじ)に違(たが)はざれば、穀(こく) 勝(あ)げて食(く)らふべからざるなり。數(しばしば) 罟(こ) 洿池(をち)に入(はい)らざれば、魚鼈(ぎよべつ) 勝(あ)げて食(く)らふべからざるなり。斧斤(ふきん) 時(とき)を以(もつ)て山林(さんりん)に入(はい)らば、材木(ざいもく) 勝(あ)げて用(もち)ゐるべからざるなり。穀(こく)と魚鼈(ぎよべつ) 勝(あ)げて食(く)らふべからずして、材木(ざいもく) 勝(あ)げて用(もち)ゐるべからざれば、是(これ) 民(たみ)をして養生(やうじやう) 喪死(さうし)して憾(うら)み無(な)からしむるなり。養生(やうじやう) 喪死(さうし)して憾(うら)み無(な)ければ、王道(わうだう)の始(はじ)めなり。

「數」の新字体は「数」
「違(たが)はざれば」の新仮名遣いは「違(たが)わざれば」
「食(く)らふ」の新仮名遣いは「食(く)らう」
「洿(を)」の新仮名遣いは「洿(お)」
「養生(やうじやう)」の新仮名遣いは「養生(ようじよう)」
「喪(さう)」の新仮名遣いは「喪(そう)」

■現代語訳:

(農繁期に民衆を兵隊や公共事業などに用いること無く、)農作業を行う時にその時期その時期に適切に行うことが出来れば、穀物は尽くは食べられない程に収穫出來、しばしば魚網を持ってため池に入らなければ、魚とすっぽんは尽くは食べることが出来ない程に採ることが出来ます。斧と鉞(まさかり)を持って適切な時に山と林に入っていけば、材木は尽くは用いることが出来ない程に手に入れることが出来るのです。穀物と魚やすっぽんが尽くは食べられない程に手に入り、材木が尽くは用いることが出来ない程に手に入るならば、これは民衆に生命を養ったり、死者を弔ったりする時に、君主への恨みが起こらないようにするものです。(民衆が)生命を養ったり死者を弔ったりする時に君主への恨みが起こらないというのは、道徳によって人民の幸福を計って天下を治める王道(おうどう)の始まりなのです。


※洿池(おち(をち)):「ためいけ。地面が低く水がたまった所。」(『新字源』P571)

※魚鼈(ぎよべつ)(小書き文字を使うと「ぎょべつ」):①「魚とすっぽん。」②「転じて、魚類をいう。」(『新字源』P1142)

※斧斤(ふきん):「おの。まさかり。」(『新字源』P301)

※山林(さんりん):①「山と林。」②「山にある林。」(『新字源』P301)

※養生(ようじよう(やうじやう))(小書き文字を使うと「ようじょう」):「生命を養う。生命の正しいあり方をまっとうする。」(『新字源』P1116)

※喪死(そうし(さうし)):「死者をとむらいまつる。」(『新字源』P190)

※楚歌(そか):楚(そ)の国の歌です。漢(かん)の劉邦(りゅうほう)は、垓下(がいか:今の中国の安徽省北部の宿州市霊璧県)の地で楚(そ)の項羽(こうう)の軍を包囲した時に、一斉に楚(そ)の国の歌を歌わせることで、項羽(こうう)は既に楚(そ)の国が降伏したのかと思いました。これが「四面楚歌(しめんそか)」の故事です。

(中国では行政単位は市の下に県があり、日本とは異なっています。)

※虞兮(ぐけい):垓下(がいか)の地で楚軍が漢軍に包囲された時に、項羽(こうう)が虞美人(ぐびじん)の身を案じて詠んだ漢詩の中での「虞(ぐ)よ」と呼びかける部分を指しています(つまり、虞美人(ぐびじん)を指しています)。項羽(こうう)が詠んだのは次の漢詩です。

力拔山兮氣蓋世  力(ちから) 山(やま)を拔(ぬ)き氣(き) 世(よ)を蓋(おほ)ひ
時不利兮騅不逝  時(とき) 利(り)あらず騅(すい) 逝(ゆ)かず
騅不逝兮可柰何  騅(すい) 逝(ゆ)かざるは柰何(いかが)すべし
虞兮虞兮柰若何  虞(ぐ)や虞(ぐ)や若(なんぢ)を柰何(いかん)せん

「拔」の新字体は「抜」、「氣」の新字体は「気」、「柰」の新字体は「奈」
「蓋(おほ)ひ」の新仮名遣いは「蓋(おお)い」
「若(なんぢ)」の新仮名遣いは「若(なんじ)」

■現代語訳:

力は山を抜く程であり、意志は世の中を蓋うほどであるのに、
時は私に不利になって、私(項羽(こうう))の愛馬の騅(すい)は進まなくなりました。

騅(すい)が進まないのは、一体どうすれば良いのでしょうか。
虞(ぐ)よ虞(ぐ)よ、一体お前をどうしたら良いのでしょうか。

(※可柰何(柰何(いか)にすべし)の「可(か)」の解釈は、『楚辞(そじ)』の「九辯(きゅうべん)」の「君不知兮可柰何(君(きみ) 知(し)らざるは柰何(いか)にすべし)」の、後漢(ごかん)の王逸(おういつ)の註釈には、次のようにあります。

○原文:

頑囂難啓、長歎息也。

○書き下し文:

頑嚚(ぐわんぎん) 啓(ひら)くこと難(かた)し、長歎息(ちやうたんそく)するなり。

「頑(ぐわん)」の新仮名遣いは「頑(がん)」
「長(ちやう)」の新仮名遣いは「長(ちょう)」

○現代語訳:

かたくなで嘘つきであり、蒙を啓くこと(愚かな人の心を開いて教え導くこと)が難しいので、長くため息をつくのです。


ここから、「どうすることも難しい」と思っていることが分かります。そこで「柰何(いか)に」の「どうすれば」という意味から考えますと、「一体どうすれば良いのか」と相手に問いかける意味があることが分かります。

元の句の現代語訳は、「あなたは道理を知らずに愚かでかたくなで嘘つきであるので、あなたの愚かな心を開いて教え導くことが難しい。一体どうすれば良いのでしょうか。」となります。)


そして、唐(とう)の張守節(ちょうしゅせつ)の註釈(『史記正義(しきせいぎ)』)には、次の虞美人(ぐびじん)の返歌があります。

漢兵已略地  漢兵(かんぺい) 已(すで)に地(ち)を略(りやく)し
四面楚歌聲  四面(しめん) 楚歌(そか)の聲(こゑ)
大王意氣盡  大王(だいわう) 意氣(いき) 盡(つ)く
賤妾何聊生  賤妾(せんせふ) 何(なん)ぞ聊(いささ)か生(い)きん

■現代語訳:

漢(かん)の国の兵士達は既に楚(そ)の地を攻め取ったようで、
四方は楚(そ)の国の歌が聴こえます。

 大王(だいおう:項羽(こうう))は、意志と勇気が尽きてしまいました。
 私(妻が夫に自分を謙遜する表現を用いています。)は、どうして少しの間でも生きていることが出来るでしょうか。

※騅(すい):「楚〔そ〕の項羽〔こうう〕の愛馬の名。」(『新字源』P1128)

※頑嚚(がんぎん(ぐわんぎん)):「かたくなで、うそつき。」(『新字源』P1102)

※意気(意氣)(いき):「意思と勇気。」(『新字源』P979)

※賤妾(せんしよう(せんせふ))(小書き文字を使うと「せんしょう」):「妻が夫に対して自分をけんそんしていうことば。」(『新字源』P673)

※恩愛(おんあい):「親子・兄弟姉妹・夫婦などの間の愛情。」(『新字源』P366)

※自刃(じじん):「刃物で自殺する。」(『新字源』P831)

※黄泉(黃泉)(こうせん(くわうせん)):「死者の行く所。よみ。」(『新字源』P1163)


●解説:

今回は、宮廷歌謡の替え歌である填詞(てんし)の「虞美人(ぐびじん)」を詠みました。

 これは、後に漢(かん)の高祖(こうそ:初代皇帝)となる劉邦(りゅうほう)と、楚(そ)の項羽(こうう)の間の戦い(楚漢戦争(そかんせんそう))の一場面を詠んだものです。

 劉邦(りゅうほう)の軍が垓下(がいか:今の中国の安徽省北部の宿州市霊璧県)の地で項羽(こうう)の軍を包囲した時の話です。劉邦(りゅうほう)は全軍の兵士に一斉に楚(そ)の国の歌を歌わせて、それを聴いた項羽(こうう)が楚(そ)の国は既に劉邦(りゅうほう)に降伏したのかと思った(「四面楚歌(しめんそか)」)ということがあった後、項羽(こうう)は妻の虞美人(ぐびじん)に漢詩を詠み、それに虞美人(ぐびじん)が返歌をした、という部分を詠んでいます。

(詳しくは語注を参照して下さい。)

この部分は中国の京劇(きょうげき)の「覇王別姫(はおうべっき)」として題材に取り上げられています。この話はとても悲劇的で、この話を思い出すたびに涙が出て来ます。項羽(こうう)の転落人生には、私自身の戒めとなる部分が詰まっているように思います。

今回のように、填詞(てんし)の中で史実を詠む、こういうこともとても勉強になります。これからもこうした機会をとらえてしっかりと勉強をしていければ良いなと思います。これからも自宅で治療を続けながらしっかりと頑張っていきます。


●付録:

『龍楡生詞學四種(りゅうゆせいしがくよんしゅ) – 唐宋詞格律(とうそうしかくりつ)』の P187 には、次のような詞譜(しふ:又は詞牌(しはい)とも呼ばれ、填詞(てんし)の譜面のことを指します。)があります。今回はこの詩譜(しふ)に従いました。

○:平声(ひょうしょう)
●:仄声(そくしょう)
△:平声(ひょうしょう)でも仄声(そくしょう)でも可
□:平声(ひょうしょう)の押韻(おういん:韻を踏む)
■:仄声(そくしょう)の押韻(おういん)

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佐村 昌哉(筆名:白川 玄齋)

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